風の気のままに気

  2006. 1. 13. Fri

 暮から新年にかけてテレビを点けるとかなりの確立で細木かずこオバサンが出ていた。このおばさん見てくれや言葉遣いで判断するとかなり嫌なオバサン。 
 しかしながらよく見ていると、と言うか聞いていると、言っていることが一々的を射ている。 
 一見非常識なオバタリアンに見えるが、どうしてどうして、何処のお母さんよりも常識的だ。 
 そして何よりもこの女性の素晴らしい点は、よそ子供を叱ることができる点である。昔のお母さんは自分の子のみならず、よからぬ行いをしている子供を見つけると、たとえよその子であろうが叱ることができた。ところが現代のお母さんたちはよその子はおろか自分の子さえ叱ることができない。そういうお母さんが多い。 
 別に責任を転嫁するつもりはないが、最近のガキどものデキの悪さの原因は殆ど母親にある。まあ、こう言う話になると、世の多くのお母さんがたの顰蹙を買い、あの「風」とか言う野郎はとんでもない奴だ、ろくなことを言わないと非難されるのを承知で敢えて書きたい。 
 よく、「昔の親爺は威厳があった。それに引き換え今の親爺はだらしがない。」と言われるがそうではない。むしろ大正生まれの親爺どもほどデタラメな世代はなかった。私の親爺を筆頭に我儘、傲慢、ホラは吹き放題な自分勝手を絵に描いたような連中が多かった。それでも親爺としての威厳があったのは母親がそのように仕立てていたからである。 
 私の母親は、親爺がどんなでたらめ言おうが、それを否定したことがなかった。 
 親爺が私にどんな理不尽なことを言おうが、それに対して私が「何だこの親爺まるでわかっていない。何を言ってるんだ」と思っても、そこで間髪をいれず、すました顔で「お父さんの言うとおりだよ」と一言入れる。 
 同じ事柄でも親爺に言われると反発を覚えても母親に言われると「しょうがない」と思うものである。その繰り返しの中から子供心に世の中にはどうにもならないこともある。母親さえも味方になってくれない場合もあるということを覚える。それにより、諦めること、我慢することを覚え、程々に妥協するという処世術を身につけて行く。 
 しかしながら、現代の母親は決して親爺を立てない。親爺が子供を叱ろうものなら、「あんた何言ってるの?」と言わんばかりに、或いは身を投げ出して子供の盾にならんばかりに、ただひたすらに、ただ意味もなくかばいだてするばかりである。ひどい場合には「お父さんなんか相手にしなくてもいいよ。あとでお母さんが何とかしてやるからね」などと耳打ちしているかもしれない。これでは、親爺の威厳なんて成り立つ訳がないのである。しかし親爺の威厳など、どうでもいい。無くなってもいいのであるが、子供の躾けは困る。現代のような世相の中で育った子供は、我慢することも、程々妥協する処世術も知らない。行き着くところは反社会的な行動と言うことになる。 
 これは何も責任を母親に転嫁している記述ではない。 
 言いたいことは、元々男には子供を躾けるなどといった大それた能力はないと言いたいのである。しかし、昔のお母さんは親爺をそのように仕立ててそれを利用して子供を教育するという実にファジーな能力を身につけていた。それぞれの役割をわきまえていたのである。 
 残念なことに、今のお母さん方は、言葉の上の男女平等にとらわれ、それぞれの役割についてのわきまえがまるで分かっていない。 
 ところが我が尊敬する細木かずこ先生はその辺のことを実によくわきまえていらっしゃるのである。あれが良きお母さんの理想像であろう。 
 「日本の母・細木かずこよ、これからもどしどし他人の子供を叱かりつけてください。自分の子も注意できない世のお母さん方のかわりに、どしどし日本中の子供を遠慮なく叱り続けてください。」と願わずにいられない昨今である。



  2006. 1. 20. Fri
      「日本のお母さん」の続き
  
 で、前回の続きになるが、やはりテレビを見ての話。毎年問題になる成人式について作詞家の中西礼がいいことを言っていた。 
 「成人式の式場で騒ぎを起こすような連中は昔もいた。しかし昔は、そういう連中は式に出なかった。自分も出なかった。」というのである。 
 そういう連中とは、型にはめられたくない連中のことである。大人達の作った一様な既成概念にはめられたくない連中のことである。昔のはぐれ狼はそれに抵抗して式に出ることを遠慮したのであるが、今の若者は遠慮せずに式に参加して騒ぎを起こすのである。 
 では、昔の若者と今の若者の違いはどこにあるのだろう。それは躾けであり教育である。昔の若者は家にあっても学校にあっても「人に迷惑をかけるな。人の迷惑になるようなことはするでない!」と耳に蛸ができるほど聞かされたものである。だから、お偉いさんが長々と演説をぶつような退屈な成人式にはでたくない。行って飽き飽きした状態で悪態をついて他の人に迷惑をかけるくらいなら欠席しよう、となったわけである。ところが今の若者には家では叱ってくれるお母さんがいない。学校でも、ことあるごとにお母さんたちに文句をつけられて萎縮してしまった先生方は躾をしてくれない。故に、人に迷惑をかけることがいけないことだと分かっていない。その結果が毎年繰り広げられる馬鹿げた成人式となるわけである。 
 中西礼も言っていた。あんなものはやる必要がない。成人としての自覚は各自が持つよりないのである。式に出席したからとて、成人としての自覚がでるものではない。 
 因みに私も成人式には出なかった。記憶は定かではないが、確か、きょうから大人だ、誰に遠慮することもない!と大人としての自覚をし、酒を飲みながら麻雀をしていたかもしれない。